
ラスト・ワルツをもう一度
いまから30年ほど前の感謝祭の日

いまから30年ほど前の感謝祭の日、ロック音楽の歴史の1ページを飾るビッグ・イベントがありました。その後、マーティン・スコセッシ監督が7台のカメラを駆使して撮影したこのイベントは『ラスト・ワルツ』として公開され、ロック・ドキュメンタリー映画の最高傑作として、いまも世界中の音楽ファンの間で熱く語りつがれています。当時アメリカにいて、この歴史的イベントを実際に体験できたぼくは、以下に掲載するレポート記事がきっかけとなり、映画のプロモーション通訳でそのグループのロビー・ロバートソンと、来日公演をしたレヴォン・ヘルム、リック・ダンコとも通訳、ツアー・アシスタントとして交遊。その後もウッドストックやロサンジェルスの彼らの家やスタジオを訪ねたり…世界一ラッキーなバンド・ファンなのかもしれません。
ことし、2009年、長年の不和に終止符を打って、ロビーとレヴォンが、もうひとりのメンバー、ガース・ハドソンを加えて、この感謝祭の日にリユニオンしてチャリティ・コンサートをやるというニュースが流れてきました。さて、その嬉しいニュースは本当なのか……。さまざまな思いをこめて、もう一度、なつかしいレポートをここに掲載することにしました。(2009年11月26日 サンクスギビング・デイに)
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{サンフランシスコ=室矢憲治特派員発} 感謝祭(サンクスギビング・デイ)の11月25日、サンフランシスコのウインターランドで、ザ・バンドが16年間の活動に終止符を打った。ディラン、ジョニ・ミッチェル、クラプトン、ニール・ヤングら、豪華多彩なゲストを迎えたこのコンサートはディナー付き舞踏会形式で行われた。
荷物をおろしなよ、ファニー
荷物をおろして自由になるんだ
ロビー・ロバートソン「ザ・ウエイト」
天井から吊るされた7つの大きなシャンデリアに灯がともる。入り口からホールへと続く赤いじゅうたんを踏んで、絹のガウン、タキシードのしっぽをひるがえしてやってきた参列者たちは、これも真紅のドレスに身をつつんだホステス役の女性たちに導かれて、次々と白いテーブル・クロスにキャンドルの置かれたディナー・テーブルに着席していく。すでに食事を終えたカップルは、プロムナード・オーケストラが演奏するシュトラウスのワルツにのって踊り始めていたり……。おっと、でもここはウィーンなんかじゃない。アメリカのロック・シーンなんだ。
ろうそくの光やワイン、くばられて胸につけたカーネーションなんかにごまかされずに、もう一度よく見てみると、ほらね、タキシードのように見えたのは、意外とタキシード模様がプリントされたTシャツだったり、お母さんのドレッサーの奥からひっぱりだしてきたダブダブのドレスの袖をまくりあげて、紙皿の上のディナー、つまり七面鳥の骨付きと格闘している女の子だったり……。サンクスギビング・デイ、サンフランシスコのウインターランド・アリーナでザ・バンドのフェアウエル・コンサート・イベント「ラスト・ワルツ」が開かれると知って、取るものも取りあえず、チケットを手に入れて会場に“ドレスアップ、もしくはドレスダウンしておこし下さい”の指示に従って午後5時の開場時間にやってきた僕らは、思いがけないワインとターキー・ディナー(マッシュポテト、グリーンサラダ、アップルパイ付き!)に舌鼓み。“たくさんの友人、ゲスト出演”が誰だろうかと、わくわく胸をときめかせていたところなのだ。
25ドルのチケットをゲットしたラッキーな5000人の観客を、こんな素敵なセッティングで迎えて、250羽あまりのターキーで饗応してくれたのはあの名ロック・イベンター、このコンサートの主催者でもあるビル・グラハム。時計を見ると、もう予定の開演時間8時をまわっているが、なあに、ザ・バンドは16年やってきて、今夜はその総決算なんだぜ……魔法のような時間が始まるんだ、ゆっくり待とうじゃないか!
“お別れのコンサートをやろうと思うんだと伝えると、ボブ(ディラン)はそいつは悲しいなと言い、ニール(ヤング)はちょっと待ってくれと言葉をつまらせていたよ。うん、だから最後にニューオーリンズの葬式みたいににぎやかなやつをやろうと思っている。ぼくは今年で32歳、その半分の16年をミュージシャンとして旅してきたんだ。8年間は裏通りのバーやクラブ、残り8年間はアリーナや何十万人も集まる場所で。でもそろそろ次の物語のページをめくらなきゃな。そうさ、ハワイに旅したってそうそう味わえないようなさわやかなラスト・トリップできめてみたいと思ったわけさ”
ラスト・ワルツ前のインタビューで、ロビー・ロバートソン
ザ・バンドはぼくらの時代の神話的グループ
「こんなことができるのはサンフランシスコだけなんだ。毎週彼らを引退させようじゃないか!」白いチョッキ姿でアンクル・ビルが叫ぶと、スポットライトが全開し、シャンデリアが今夜のオペラ座の主役、5人の男たちの姿を浮かびあがらせる。「アップ・オン・ザ・クリプル・クリーク」、もう、のっけから会場の全員が総立ちだ。スーツ姿のベーシスト、リック・ダンコ、ドラムを叩きながら紅潮した顔でマイクに向かい男っぽいボーカルをきかせるレヴォン・ヘルム、キーボードの前にひげづらの顔を揺らすリチャード・マニュエルが、後ろのオルガンの席には、はげあがった額のガース・ハドソン。そして中央に金色のストラトキャスターをかかえ、赤いスカーフ姿の洒落者、ロビーが。よく見ておいてくれよ、これで当分……とその伏し目がちな瞳が言っているようだ。もう誰もが知っているように彼ら5人の旅は、69年この同じ場所でデビュー・コンサートをしたずっと前から、混乱と興奮と混沌の60年代という時代を生きてきた多くの同世代の若者たちに、その音楽を通じて、生き様を通じて、多くの希望や啓示、意味を与えてきたのだ。その時代と世代を象徴するかのような素敵な神話的グループなのだ。
始まって2、3曲で、もうすっかり熱くなった客席からは「ザ・ウエイト!」とリクエストの声が飛ぶ。“ごめんよ、それは2時間後だな”ホーン・セクションが加わり、「ライフ・イズ・ア・カーニバル」が始まると、客席はほぼ全員が一緒になってコーラス隊に化している。うーん、これはまさにカーニバルの夜、祝祭の夜が始まったのだ。
続々と登場する顔、顔、顔……きらめきスター・ナイト



「じゃあ、今夜のゲストを!まずはホーク!」とロバートソンの紹介で登場したのは、鷹の紋章入りのカウボーイ・ハットの男。16年前にカナダのトロントで10代のロック小僧だった彼らを集め、しごき、ホークスとして、ザ・バンド誕生のきっかけを作った骨太のロック・シンガー、ロニー・ホーキンスだ。巨体を揺らして10年ぶりの共演は「フー・ドゥ・ユー・ラブ」。続いて南の地ニューオーリンズからはドクター・ジョンが、北のウッドストックからはボビー・チャールズが祝福の演奏。さらにシカゴから大御所ブルースマン、マディ・ウォーターズが「マニッシュ・ボーイ」を熱唱し、会場を根こそぎ別の次元へと連れていく。やはり、ウッドストックの隣人でアメリカの白人ブルース・ブームの火付け役、ポール・バターフィールドがハーモニカで「ミステリー・トレイン」のイントロを吹き始める頃には、このザ・バンドの歩んできた音楽ジャーニーを綴るかのようなーーそしてまたアメリカン・ロックの歴史をたどるかのようなーー今夜の見事なプログラム構成に気づいて僕は脱帽。客席は興奮でヒューズを飛ばし、ロバートソンの弦も飛ぶ。おっっと。たちまち、コンサート・マスターのように彼の右手が上がると、そこは長年の呼吸。ピタリと演奏が中断されて、かわりのストラトが運ばれると再びGO !!どんなプレイヤーを迎えても一丸となって最高のバッキングをつとめる5人、まさに彼らが“ザ・バンド”と呼ばれてきた由縁だ。
えんじ色のベルベット・スーツを着て登場し、ロバートソンとギター・バトル、エリック・クラプトンの「ファーザー・オン・アップ・ザ・ロード」は圧巻。うってかわっておんぼろジーンズのホームレス・スタイルで登場したニール・ヤングは郷愁。「ヘルプレス」ともうひとつのカナダ国歌「フォー・ストロング・ウインズ」で涙ちょちょぎれだ。(バッックステージで雪が舞ったのか、ニールは鼻先を白くしてへろへろ。歌詞を忘れてリック・ダンコに助けてもらっていたが終止ごきげんモード。カナダ同窓会セクションのしめくくりで、ジョニ・ミッチェルとザ・バンドの「アケイディアの流木」のコーラスに加わった時はジョニのお尻に手をまわし、たちまち、彼女に“やんな!”をされていたのは笑えた。)
ティンパン・アレーの代表ということかニール・ダイアモンドの「ドライ・ユア・アイズ」は、やや場違いで意外な感じもしたが、そんな懸念はヴァン・モリソン、「キャラバン」の入魂の熱唱熱演が吹き飛ばしてくれる。会場の屋根が吹き飛びそうな大喝采。彼もまた50年代、60年代の音楽のマジックに魅入られ、アイルランド、イギリス、アメリカと渡り、ザ・バンドと同じように長い旅をしてきた仲間、友人、同志なのだ。
5000人の声がひとつに溶けあった
『ラストワルツ』日本公開舞台挨拶でのロビー&ムロケン。左は司会者、深夜放送ブームを作ったラジオパーソナリティ、アンコーさんこと斉藤安弘氏。 午後11時50分、「ザ・ウエイト」の演奏が終わると、ついに誰もが待ち望んでいたその男がステージに姿を現した。カナダ出身の無名のロックボーイズを一躍、世界の檜舞台のスポットライトの中に連れていき、ブーイングの嵐にもあいながら、ロック音楽の歴史に新しい扉を開いたその人、ボブ・ディランだ。ウッドストックの山奥の家、ビッグ・ピンクで彼とボーイズがこもって練り上げた音楽が、『ザ・バンド』、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』というアルバムに結晶し、その人気と評価を不動のものにしたことなど、あらためて振り返る必要もないだろう。
わたしをここに置いてくれたすべての人の顔をわたしは忘れない
西から東へ 光がさしてくるのが見える
いつの日にか いつの日にか わたしは自由になるだろう
顔、顔、顔、すべての顔が並ぶ。ロバートソン、ディラン、ヴァン・モリソンが。リック・ダンコの横にはニールが、ジョニが。右手のマイクにはクラプトン、バターフィールド、それになんとローリング・ストーンズのギタリスト、ロン・ウッドまで。えつ、その後ろでにこにこ笑顔の男、あれはリンゴ・スターではないか!ステージの袖にはカリフォルニアの若い州知事ジェリー・ブラウンの姿まで見える!
なんていう集まりだろう、なんていうフィナーレだろう、これは!「アイ・シャル・ビー・リリースト」、ザ・バンドの5人、32人のゲスト・ミュージシャン、そして会場のぼくら5000人の声が溶けてひとつになっている。歌の力って、音楽の力ってなんだろう!?

圧倒的なフィナーレの後はフリー&ルースのジャム・タイム。リンゴ・スターとレヴォン・ヘルムのドラム合戦があり、それはニール・ヤングとロン・ウッド、ロビー、ドクター・ジョンらのジャム・セッションに続き、ビル・グラハムが丸太のように運んできたクラプトンが加わる。35分ものマラソン・ジャムだ。セカンド・ジャムは、なんで今頃やってくるんだよ!スティーヴン・スティルスの登場で会場は騒然、ひさしぶりの再会でニールとハグをかわすと彼はロバートソンのギターを借りて、このウインターランドの奇蹟、スーパー・セッションの主役になる。
午後3時、“まだ、みんないたのか!”と再びザ・バンドがあらわれ、最後のナンバーを演奏する。マーヴィン・ゲイの曲「ドント・ユー・ブレイク・マイ・ハート」だ。ぼくのハートを引き裂かないでくれ、だって?冗談じゃない、本当にこれが最後なのかい? もう、これっきり、これっきりですか? ハートが砕けちゃうのはこっちのほうさ……。
おやすみ、さようなら、とハイネッケン・ビールを片手にロバートソン。祭りのあとの美しい余韻を胸に帰途につくワルツの客たちは、みんな一様にすてきな微笑みを浮かべていたんだ。
(1977年『GORO』GO ROCKING PAPER 1月27日号掲載)
THANKS TO MY EDITOR,SHUJI SHIMAMOTO
ジョー・ストラマー、フォエヴァー!
ジョー・ストラマーそうだ、忘れもしない2002年のクリスマスの直前、12月22日。“パンクのゴッドファーザー”の突然の訃報が世界を駆けめぐった時、世界中のファンたちの悲鳴にまじって、あるレポーターはこんな悲痛な声を上げていた。
“なんてこったい、今こそ世界はジョー・ストラマーを必要としているのに!”
いまさら振り返るまでもないだろうが、経済格差政策によって貧窮と荒廃が進んでいた70年代半ばのロンドン。その街角から“俺たちは音楽で世界を変えるんだ、これは白い暴動だ”と激しく挑戦的なメッセージを叩きつけるように始まったパンク・ムーブメント。セックス・ピストルズとともにその先頭を切ったバンド、ザ・クラッシュのフロントマンとしてジョー・ストラマーの与えた影響は計り知れないほど大きなものだった。
「あの頃ロックはただの娯楽じゃなかった。生死を賭けるものだったんだ」と語るのはボノ。「1976、77年、突如それまでの世界の動きが止まるかのような啓示の瞬間があった。歌詞の内容がギターソロより重要と思われるようになり、誠実さが重要視されるようになった。神格化されてぜいたくな暮らしに興じるロックスターたちなんかどうでもよくなったんだ。そして俺たちだってできるさって気持ちになったんだ」――そう、クラッシュのもたらした“意識革命”を全身で受け止めた彼、ボノ。U2の結成をうながしたのはクラッシュの、ストラマーの太く逞しく、かっこよく、またどこか不器用な生き様だったのだ。
ジョーストラマー映画ジャケット2007年に日本でも公開されたジュリアン・テンプル監督の映画『LONDON CALLING/ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー』(原題 JOE STRUMMER:THE FUTURE IS UNWRITTEN)は、一条の光のようにまばゆく時代を駆け抜けたこのカリスマ・ロッカーの軌跡を、多くの貴重映像とサウンド、ジョニー・デップ、ジム・ジャームッシュら友人、知人、過去の恋人やバンド仲間たちの証言をまじえて見事に浮かび上がらせていたっけな。
外交官の父の赴任地、トルコで生まれ、以後エジプト、メキシコ、西ドイツと非英語圏を転々とし、アンチ白人至上主義と後のワールド・ミュージックへの関心の端緒となったかもしれない少年時代。寄宿学校に入れられ、上級生のいじめと戦いながら、タフでまたしなやかな処世術を身につけた中学・高校時代。そして60年代終わり、アートスクールに入り、ハプニング、サイケデリック、反体制的ヒッピー文化を吸収しながらドロップアウト。イギリス各地を旅した青春放浪時代。恋人への手紙に描かれたマンガ調のスケッチをわざわざアニメ化したり、当時のニュース映像や写真をふんだんに挿入しながら、テンプル監督は、一癖も二癖もある、本名ジョン・メラー青年の成長物語を堪能させてくれたもの。そしてロンドン地下鉄駅内での街頭演奏でミュージシャン・デビュー。政府の立ち退き政策に抗議して、不法占拠運動をはじめた仲間たちと101ナーズを結成。たちまちリーダーシップを発揮して、パブの2階を借りてブロック・パーティの人気バンドに仕上げ、後のクラッシュ・メンバーたちにも注目されるようになるくだりは、凡百のロック映画よりはるかにおもしろかった。
ああ、ジョー、わるかったな。1976年、ロンドンの官憲の過剰介入であのハッピーな植民地音楽の祭典、ノッティングヒルのカーニバルが暴動になり、きみやポール・シムノンが街頭で怒りを爆発させて『白い暴動』を実践していた頃、俺はパンクのパの字も知らず、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』発表パーティに招かれ、LAの豪華ホテルのプールサイドでシャンパンにコーク。あるいはザ・バンドの解散コンサート、“ラスト・ワルツ”の会場でディランやクラプトン、ニール・ヤングらオールド・スクールのスター競演に目をウルウル、鼻をズルズルさせていた“だめなヒッピー”ロック・ジャーナリストだったんだよ。

でもそんな俺のどこを気に入ってくれたのか、新生ストラマー・バンド、メスカレロスと来日して通訳として初対面した俺にいきなり“実は俺もヒッピーなんだぜ!”とハート・オープン。ホテルの自室に俺を拉致し、ギンズバーグからトム・ウェイツに至るアメリカン・ビートへの関心、新しいレイブ、トランス、テクノ・ムーブメントの素晴らしさを共通項として、ハイ、ハイ、ハイ。以後3年間、ボヘミアン・フレンドシップでつながれることになった。「大事なのはヒッピーだろうが、パンク、テクノ運動だろうが、理念や能書きじゃなくて人と人との豊かなつながりなんだよな」と。人気と名声を得てからのメンバー間の衝突、精神的空洞化、解散。そして深い挫折感の中で復活への足がかりを模索した“荒野の時代”。俺の知らなかったきみの歴史をあの映画はたっぷり教えてくれたんだった。そして「友がいてこそ人生」という感動的なメッセージであの傑作ムービーが終わった時、なあ、ジョー、映画の中でキャンプファイアのそばできみについて語った多くの友人たちと同じように、俺と鳥井賀句、野田努、それぞれヒッピー、パンク、テクノ音楽に一言を持つダチたちは集まって、パブに繰り込み、あんたの素晴らしい人生の軌跡に乾杯の杯をあげたんだった。

写真はジョーからの“ラブレター
ああ、あれはつい昨日の思い出・・・。
また、めぐってきた12月22日。それであらためて俺は思うんだ。
ありがとう、ジョー、あんたがくれたこの炎、これからも俺たちは、もっと多くの仲間たちに伝えていくよ!GO,GO,GO,AMIGOS!
★今年もたくさんの素敵なライブ、一緒にしてくれた仲間たち、
応援にきてくれた友たち、ありがとう!2010年しめくくりライブは12月30日(木)平塚のライブハウスRAINで、夜7時半からMUROKEN& FRIENDS( ブルース・クエイク、KAOLUちゃんらと)やりまっす!!
問い合わせ GARIさん TEL 090-3476-8905
KEEP ROCKIN' だっちゅうの
(写真はジョーからの“ラブレター”、『ロンドン・コーリング』必見DVD!)

“”ロックの未来”を聴いてくれ!

HEY,HEY,HEY 季節は寒くなってきたけれど
全国のフレンズ、ラヴァーズ、ロックンロール・ファンの仲間たち
アー・ユー・オーライ? みんな元気か~い?
昨日はわれらがニール・ヤングのバースデー
もうニューアルバム、LE NOISEは訊いたかい?
でもこの週末のムロケンロールDJタイムはこのビッグ・ニュース
あのロック・ジャイアント、ブルース・スプリングスティーン
その幻の作品、1978年『闇に吠える街』の未発表テイク21曲が
『THE PROMISE( THE LOST SESSIONS:DARKNESS ON THE EDGE OF TOWN)』が
アメリカではこの11月16日、日本では12月8日についに
リリースされちゃうってニュースだよ
まず、日本版でこの『promise』のトレイラーをチェック・ヨー
promise
そう、“ボス”とみんなから呼ばれる、アメリカン・ロックの良心、
心のボス、ブルースがデビューしたのは1973年1月
『アズベリー・パークからの挨拶』
“第2のボブ・ディラン”として登場したけれど、アルバムは売れず・・・。
ちょうどその頃、宝島北米支局長としてニューヨークにいて
今日はデヴィッド・ボウイ、ジギー・スターダスト公演、明日はグレイトフル・デッド、ナッソー・コロシアムという日々を送っていたムロケン
その日は偶然、コロンビア・レコードで友人のロック評論家、ポール・ウィリアムズと
その“ニュージャージー出身の噂の新人”とばったりあって意気投合
くしゃくしゃ頭にジーンズ&スニーカー姿でギターかかえ
当時の恋人ダイアンと一緒にマンハッタンの街角を寄り添って歩く姿はまるで
あのディランの『フリーウィーリン』のジャケット写真みたい
ダウンタウンのポールのロフトにくりこみ、さっちん(金延幸子)が作った玄米ごはんディナーを食べました。(おいらはミソ・スープつくりました・・天下のブルース・スプリングスティーンに味噌汁をつくってごちそうした日本人ライター……これ、ちょっと自慢)
まあ、いいやその時のエピソードはまた近いうちに、あらためて

そして同じ年の11月、Eストリート・バンドの仲間と『青春の叫び』を発表。
75年には3枚目『ボーン・トゥ・ラン/明日なき暴走』で大ブレーク!!
世界的ビッグスターになるんだけれど
その前においらこのEストリート・バンドとの演奏
あのマクシズ・カンサスシティにブルースによんでもらって
みちゃったよ~~~しびれちゃったよ~~~
(写真のMAX’Sの看板見て!この日の対バン、誰だったと思う?THE WAILERS…
あっ、この時の話もまた、あとで~~~)
とにかくこの時代のブルース・スプリングスティーン&Eストリートバンドの演奏が
どんなにすごかったか!
youtubeでロンドン、ハマースミス・オデオン・ライブでチェックヨー!
ハマースミスオデオン、1975のSHE’S THE ONE
SHE’S THE ONE
70万ヒットの書き込み1200!THUNDER ROAD
THUNDER ROAD
でも、ビッグスターになった代価というべきか元マネージャーと泥沼の訴訟事件に巻き込まれ3年間次のアルバムは作れないという悲運にみまわれてしまったんだ。でもでもそんなことにめげるボスじゃなあい、この期間にいっぱい新しい曲作りを彼はしていたんだぜい(ということは、ピーター・ガンバチー二著、ムロケン訳、『ブルース・スプリングスティーン』で読んだ人もいるかと・・)
とにかく、これまでブートレグでしか出回ってなかった78年4作目の『闇に吠える街』からこぼれた作品群がついに『THE PROMISE 』として日の目をみるんだよ!パティ・スミスが歌ってヒットになった「ビコーズ・ザ・ナイト」はもとより彼のアイドル、エルビスの歌唱法いただきの傑作「ファイア」バディ・ホリーの「ペギー・スー」のタムタム・ドラム連打をドラマー、マイティ・マックスが見事にきめた「アウトサイド・ルッキン・イン」。
このセッション中に起きたロック史の大事件は「カム・オン(レッツゴー・トゥナイト)」の中で“今夜ラジオが言ってる、エルヴィスが死んだって”と歌われてるよ。
そしてこのロックの歴史を新たにぬりかえる32年の時を経て発表の傑作アルバム『PROMISE』のハイライトはこの曲
「AIN’T IT GOOD ENOUGH FOR YOU 」
さあ、聴いてくれ!楽しんでくれ !
ロックにはまだ俺たちを元気にして未来に向かわせてくれる力があることを教えてくれるこの熱演11/16までの限定視聴だよ!
NPR (NATIONAL PUBLIC RADIO)のファースト・テイク
57分35秒 15曲
NATIONAL PUBLIC RADIO
トム・ウェイツ
トム・ウェイツ クロージング・タイムに遠く
人は俺を喜ばせ屋のウイリアムと呼ぶ
阿片と花火と鉛を売ってきた
いま俺は見知らぬ人々にわが苦難の物語を話そう
影が長くなる頃にはどうせもう生きちゃいないだろう
「ルシンダ」
万雷の拍手と歓声の中、舞台に登場した男は足を踏み鳴らし、地獄の魔王のように腹の底からしぼりだすような声で、吠えるように歌いはじめる。トム・ウェイツ・イズ・バック!ギター、ウッドベース、ドラムス、キーボード、サックス、5人のバックバンドが一丸となって、この曲にアップテンポの「エイント・ゴーイン・ダウン」をサンドイッチ。
“ママ、もうどん底になんか落ちるものか!”と黒ずくめの衣裳、妖しい宣教師風のウエイツがさらに激しくブルース・シャウトすれば、おお、それはなんて今のダメな時代の俺たちの気分!ウェイツ大魔王、花火と鉛だって、それは火薬と銃弾のことだろう。おまえの毒の効いた歌で俺たちのハートを射ちぬいてくれよ!地獄でも天国でも連れていってくれよ! そういわんばかりの大歓声。オープニングからこの魂のボードビリアンは観衆の心をわしづかみだ。そう、2008年夏、アトランタは、プラハは、パリは燃えていたのだ。
炎の真ん中には魂の救済請負人、嘲笑と毒舌のピエロ、孤高の前衛ミュージシャン、アメリカ民衆詩人、求道者、ジョーカー、ぺてん師、堕天使……あの七つの顔を持つ男、トム・ウェイツがいたのだ…。
トム・ウェイツって誰?
キャロル・キングの『つづれおり』が大ヒットし、ジェームス・テイラー、ニール・ヤングらが自伝的、内省的な歌で、いわゆる“シンガー・ソングライター・ブーム”が起こった70年代初め、デヴィッド・ゲフィン率いるロスの新興レーベル、アサイラム・レコードはジョニ・ミッチェル、ジャクソン・ブラウン、イーグルズらこの路線の有数なミュージシャンを抱える会社だった。ロスのクラブでピアノの弾き語りをしていて発掘されたトム・ウェイツが、アサイラムからアルバム『クロージング・タイム』でデビューしたのは、1973年。22歳の若者とは思えない独特のしわがれ声で、社会の底辺にいる人々の哀感をやさしさとユーモアをまじえた詩で歌い上げる彼は、自己告白的スタイルの他のレーベル仲間とは最初から一線を画し、ステージでの軽妙なトーク、前世代のビートたちの伝統を継承するポエトリー・リーディングをまじえたパフォーマンスから、いつしか“酔いどれ詩人”の異名で呼ばれるようになり、カルト的人気を集めていく。
しかし、次世代のディランとして同じ年にデビューしたブルース・スプリングスティーンが脚光を浴びる一方、コンスタントにアルバムは出しながらも、どさまわりの日々を続ける彼。日本での初来日公演を前にした1976年、カリフォルニアの田舎町のホテルで日本人として最初のインタビューをした僕に、“俺の得意楽器はボキャブラリーさ”とうそぶきながら、“人気も名声なんてものも関心はないね、だって俺は俺のパレードを続けているんだから”と一言。アーティストとしての強靭な魂をうかがわせる言葉に、僕は強い印象を受けたものだ。
2006年、デビューから35年目にあたる年に彼の3つ目のレーベル、アンタイ・レコードから出た『オーファンズ』は、あれからの彼のパレードの成果を集大成した、ウェイツ万華鏡ワールドともいうべき、素晴らしいアルバムだった。そこにはアサイラム時代の繊細にして骨太のジャズ詩人ウェイツ、80年代に移籍して『レイン・ドッグ』などの名盤で開花したアイランド時代のアバンギャルド・ミュージシャン、ウェイツ、さらにグラミー2000年度の最優秀コンテンポラリー・フォーク・アルバムに輝いた『ミュール・ヴァリェーションズ』で他に比べるものなき“ウェイツ・ミュージック”の確立を世界に示した新しいアンタイ時代のウェイツ、そのすべてがつまっていた。3枚組、54曲入りのこのアルバムにはジョニー・キャッシュが、ノラ・ジョーンズが取り上げたウェイツ・オリジナル・ソングばかりか、彼の文学的ヒーロー、ブコウスキーのリーディング、ジャック・ケルアックへのオマージュ・ソングも、フランシス・コッポラ監督の『ワン・フロム・ザ・ハート』ではじまった数々の映画音楽、舞台音楽の最新作品も、アメリカン・フォークソングの父、レッドベリーの「グッドナイト・アイリーン」も入っているという出血大サービス!(せっかくの歌も歌詞の意味がわからなくては、という向きにはソニーミュージックからの日本盤を。訳詞BYムロケンだ!)



めくるめくウェイツ・ハップニング!
2007年暮れにはニューヨークで行われたダライ・ラマ平和と和解のためのチャリティ・コンサートでクロノス・カルテットと共演して、大反響となった「ダイアモンド・イン・ユア・マインド」がネット配信。
さらに2008年春にはあの若手人気ナンバーワン女優、スカーレット・ヨハンソンが、歌手としてのデビューにウェイツ作品10曲を取り上げたアルバム『レイ・マイ・ヘッド』を発表して、ラブ&リスペクト。これには長年のウェイツ・ファンたちもビックリ。
しかもシングル・カットの「フォーリン・ダウン」「ファニン・ストリート」にはデヴィッド・ボウイもゲスト参加。日本では立花隆から福山雅治まで隠れウェイツ・ファンが幅広くいるのは知っていたが、誰が彼がダライ・ラマやハリウッド1のセクシー女優にラヴ・コールを受けるなんて事態を想像できただろう?
さらにあの人気カルト映画『ダウン・バイ・ロー』出演以来の友、ジム・ジャームッシュ監督の『コーヒー&シガレッツ』から『ドミノ』、ロベルト・ベニーニ監督のイタリア映画『人生は奇跡の詩』まで、映画界からも出演依頼はひっきりなしのもてもてぶり。(この記事を書いているウェイツ60歳の誕生日にも、新作『指輪物語』に出演交渉が、のニュースが!)そしてとどめは、ジャムバンド系音楽誌『relix』発行人からかかってきた電話だ。
「ヘイ、アミーゴ!トムが本格的なライヴ・ツアーをやるぞ!アトランタでの最終公演のチケットをおさえたから飛んでこいよ」。ヒッピー詩人、ウェイビー・グレイビーが来日した時に知り合って「これまでの人生の旅のパートナーは、デッドとディラン、ニール・ヤングとトム・ウェイツだ!」と意気投合して新たにつながったトムだちの輪。気がつくと、時ならぬウェイツ・フィーバーにかかった僕の体を乗せた飛行機は、風とともに来たりぬ!
あのデキシーランドの首都、ジョージア州アトランタ空港に舞い降りようとしていた。
ショータイム、超タイム、トム・ウェイツを聴こう!
アメリカ南部12都市をまわり、さらにヨーロッパで7都市、8月1日、ウェイツ家先祖の出身地、アイルランドのダブリンで打ち上げたトム・ウェイツひさびさのライヴ・ツアー、GLITTER & DOOM“栄光と破滅”ツアーがどんなにパワフルで、破天荒で、アバンギャルドなものだったか。それはこのほど発売された2枚組『グリッター&ドゥーム・ツアー・ライヴ』アルバムを聴いていただければ、よくわかっていただけるだろう。(CDの一枚は稀代のジョーカーの顔をフィーチャーしたステージ・トーク集だ)。
ただ、ひとつだけ残念なことは、このライヴ・アルバム、いまフジテレビで放映中のドラマ『不毛地帯』のエンディング・テーマ曲として話題沸騰の「トム・トラバートのブルース」も、映画『スモーク』で有名になった「夢見る頃を過ぎても」や「ホールド・オン」という、聴けば涙のウェイツの代表的バラード作品が一切ふくまれていないことだ。
と、なれば、よろしい、ウェイツDJが、その嘆きをヒールしよう。
★まずはトム・ウェイツ未体験という恥ずべきロック・キッズたちのためにあのキース・リチャーズとの共作「ザット・フィール」。ロックの二大怪人の身も凍える共演を聴けぃ!
次はニール・ヤング主催のブリッジ・コンサートで前述のクロノス・カルテットのストリングス演奏をバックにだみ声アース・オペラ歌手、ウェイツ。「コールド・コールド・グラウンド」。1987年発表のコンセプト・オペラ・アルバム『フランクス・ワイルド・イヤーズ』の収録曲だ。失意、絶望、夢の絶対零度というテーマを、これほど.感動的に歌える人間がいるだろうか?
さて、レディーズ&ジェントルメン。2008年夏のトム・ウェイツ・USツアーのラスト・ストップ、7月5日、アトランタ、フォックス・シアターにようこそ!!これから始まる2時間20分ノン・ストップのショーは、NPR(アメリカのNATIONAL PUBLIC RADIO)が全世界のトム・ウェイツ・ファンに送る珠玉のハイ・タイムだ。開始から40分に「ホールド・オン」が、夜遅くまで100円ストアのバイトで頑張るきみにエールを。1時間19分後に始まる「夢見る頃を過ぎても」が会場3千人のコーラスとともに、あなたを至福のウェイツ・ワールドへと導くだろう。言葉の魔術師ウェイツが自分自身へインタビューをするという抱腹絶倒の記事を楽しむならAN EXTENDED PRINT INTERVIEWをチェック・プリーズ。コンサートはもちろん左上のHEAR THE CONCERTマークをクリックのことぞ。ではドレスの裾をからげてくれたまえ! ARE YOU READY? GOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO !!
npr music
さあ、トム・ウェイツDJアワーもそろそろクロージング・タイム。
みんなひとりひとりのマティルダ抱いて、明日のパレードのために休むとしようぜ。
お別れはもちろん、この曲。ヨーロッパ公演最終日、2008年8月1日、アイルランド、ダブリンからさ。
街灯の火は消えたって心のあかりは消えやしねえ
みんな大事に何かを守り 今夜の眠りにつくだけさ
だからおやすみ みんなおやすみ
ストリップ小屋の女の子たちも夜回りのおじさんも
俺の素敵なマティルダも・・・
Waltzing Matilda, Waltzing Matilda
You’ll go walzing Matilda with me・・・
「トム・トラバートのブルース」
『トム・ウェイツ/酔いどれ天使の唄』(1989)より
ムロケンwith TOM WAITS
ロック・スピリットを忘れない!
ロック・オブ・エージズ
ロック音楽は、ぼくらグローイングアップ・イン60〜70‘s世代にとって、喜び、エネルギー、インスピレーションの源泉、大事なルーツ・カルチャーだよね。ボブ・ディランの歌のワンフレーズ、ビートルズのサウンド、ストーンズのかっこよい生きざまが、人生のさまざまな局面で、どれだけ多くのヒントや励ましを与えてくれたことか!



なんてことを今さらながら思ったのは、この秋の初めに電話がかかってきて会った音楽雑誌『ミュージック・マガジン』の若い編集者から受けとった2冊の別冊本をぱらぱらめくっていた時。最近はご無沙汰しているけれど、今年で創刊40周年を迎えたその『MM』誌は、昔は『ニューミュージックマガジン』の名で、日本でいちはやく欧米のロック音楽を紹介したパイオニア音楽雑誌。アメリカで生にそのシーンを見てきた僕は、色々書かせてもらったり、インタビューで喋ったり、友人のアメリカ人ライターを紹介したり、やってました。若い初対面の編集者氏と会ったのは、その頃、北中正和さん、田川律さんら当時のエディターや、はっぴいえんどの松本隆さん、遠藤賢司さんらデビューアルバム出したばかりの仲良し音楽仲間たちとよくたまっていた喫茶店マックスロードのあった場所にできた渋谷、南平台のカフェ。「前にここにあったマックスロードは今や伝説の店になってるらしいね」なんてところから話をはじめたら「いえ、ムロケンさんも僕ら編集者仲間では伝説の人なんですよ」と言われて、え。え?っ! 受け
取った『ロック・オブ・エージズ 小倉エージ・インタヴュー&トーク集』を見たら巻頭の座談会「旅人ディランはどこへ行く」では、帰ることのできない“故郷への回帰”がディランの歌作りのひとつのモチーフだよ、なんて青臭く生意気に喋ってるではありませんか。
もう一冊の『アルバム・ランキング・ベスト200』では、第一位に選ばれたビートルズ・アルバム『アビイ・ロード』について 「70年5月号で“誰がアビイ・ロードを渡ったかービートルズ、愛の原理”と題し、室矢憲治が10ページにわたるビートルズ論を書いている」なんて紹介が載ってました。そ、そうか、ディランやビートルズを、この目で見てきて、その詩、音楽の素晴らしさを熱く書き、語っていたんだあの頃は……。よく筆者紹介に書かれる“日本のロック・ライターのパイオニア”であることを改めて証明してくれる
この二冊。ちょいと勲章をもらったみたいで嬉しいぜ。ロック音楽について書くことが、まだみずみずしく、クリエイティブな表現だったんだ。世界で最初に“ロック・クリティック”の肩書きで「クローダディ」誌を創刊したポール・ウィリアムス、その雑誌から世に出たロバート・クリストゴー、ジョン・ランドー、あるいはレスター・バングスやグリール・マーカスやエージや僕や北中正和くん、渋谷陽一さん、みんなロック・ライティング・ロールしていた素敵な時代だったんだ。
でも、ひるがえって、いまレコード会社も音楽雑誌も低調、10ページも書ける雑誌もないし、ロック音楽も消費社会の歯車に巻かれて、若者たちは携帯電話をにぎりしめ、nothing moves them, nothing to get high with……。兄貴や親父たちが、あの激動の時代をこんないかしたミュージックを心のBGMにして生きてきたことを知らないんだろうか……。
そうだ、ルーツ・ロック何十年といえば、この10月の終わりにニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデンでロックの殿堂ROCK AND ROLL HALL OF FAME 25周年記念コンサート*が2日間に渡って開かれ、ミック・ジャガーとU2が、スティービー・ワンダーとスティングが、メタリカとルー・リードが、スプリングスティーンとビリー・ジョエルが、夢のカップリング共演でステージに立ち、あらためてこのロック音楽という文化の流れの偉大さセレブレーションしたばかり。旅人ディランもちょうど昨日、今年100回のネバーエンディング・ツアーをニューヨークでしめくくったばかり。みんなバリバリ現役だぜ!
プリーズ.チェック・ザ・ブックス!小倉エージ、はるか昔、「いつかロック・オブ・エージズなんて本を出すといいね」なんて言って笑っていたら、ついにほんとになったね、おめでとう!そしてインタビュー掲載、サンキュー!今度会ったらフランス料理でもおごってくれい! ところで矢吹申彦さんの表紙イラスト、ディランの後ろにいるザ・バンド。長年、不和が伝えられていたレヴォン・ヘルムとロビー・ロバートソンが和解して、このサンクスギビング・デイに、ガース・ハドソンら残ったザ・バンドで76年の“ラスト・ワルツ”以来、ひさびさのジョイント・コンサートを演るという噂が流れているけど、知っている? OH,ANYWAY,KEEP THE ROCK SPIRIT ALIVE!!
『ロック・オブ・エージズ』『アルバム・ランキング・ベスト200』(¥1700 ミュージック・マガジン社から全国書店で発売中)
*11月29日(日)東部時間午後8時からHBOでこのコンサートの模様がオンエアー!日本で見られる人は是非チェック!アメリカにいる友人たちにも知らせよう!
NEW YORK POST

*1969年“世界最初のロック評論集”として欧米で大きな話題となったポール・ウィリアムス著『アウトロー・ブルース』。日本では室矢憲治訳、平野甲賀装丁で1972年晶文社から発刊。当時のロック・ファンの間で人気を呼んだ。長い間、復刻希望本リストの上位にあるこの本、今こそ再発売するべき時。熱いロック・スピリットの編集者、連絡乞う!
TAKING WOODSTOCK
そう、1969年、人類が初めて月の上に立った年の夏の3日間、
ニューヨーク州郊外で4人の若者が主催して、
40万、50万人ともいわれる若者たちが、ザ・フー、サンタナ、ジャニス・ジョプリン、グレイトフル・デッド、ジミ・ヘンドリックスらの演奏を聞きに集まり、合言葉はLOVE & PEACE、そしてGOOD MUSIC その後のロック音楽の歴史、若者たちの意識、ファッション、文化の流れに決定的な影響を与え、“60年代sixties”のハイライト、いや今や20世紀の伝説的な出来事と神話の高みにまで達したあのウッドストック・ミュージック・フェスティバル’69 !!


もうすぐー1月15日からー日本でも公開される映画
『ウッドストックがやってくる』(TAKING WOODSTOCK)は、この世紀のイベントにふとしたきっかけから大きく関わることになった若者が発表した実話ストーリーをもとに、『ブロークバック・マウンテン』でアカデミー賞を獲得した
アン・リー監督が映画化。ベトナム戦争が激化した時代の当時の若者たちの様子、フェスティバル開催が実現するまでのこれまで知られざる舞台裏を描いた劇映画として、去年40周年目の夏にアメリカで公開されると大反響。
すでに日本でも翻訳されて出版されている原作の
『ウッドストックがやってくる』(エリオット・タイバー、トム・モンテ著、
矢口誠 訳、河出書房新社 \1800)を読んでご存知の人もいるでしょうが、
何故、フェスティバルがウッドストックと名乗りながら、
離れたホワイト・レイクで開かれたのか?
PS.今年しめくくりに12/30(木)7時PMから
平塚 レインでhttp
平塚 レイン
MUROKEN& FRIENDS 演りますよ。ブルース・クエイクの
ヤージさんらと一緒に、歌姫カオルちゃんも登場
お近くの方は是非、来てね。2010年エンドを盛り上がろ~
本屋で発売中『別冊カドカワ 佐野元春特集号』にも
ぼくのインタビュー記事載ってます。よろです。


何故、はじめは有料だったフェスが
途中からフリー(無料)コンサートになったのか?
イベントを主催したのはどんな若者たちで
どんな人々がどんな風にこの“祭り”を作りあげたのか?
アン・リー監督のこの作品は
個人的にこのイベントで大いなる“めざめ”を経験する
主人公のエリオット青年の物語を物語るとともに
すばらしい映像と音楽を駆使しながら
これらの秘密をあきらかにしてくれます。
かつてマイケル・ワドレー監督の
音楽ドキュメンタリー映画 『ウッドストック、愛と音楽の3日間』を映画・ビデオ・DVDで見て、ときめきをおぼえた人たちなら、この映画はYO-CHECKだよ
それで、かつてアメリカでリアル体験をして、そのレポートを
弱冠10とウン才で日本のマスコミに発信して
ロック・ジャーナリストの処女仕事をした僕としても
なにかやらないとハートビートがおさまんな~い
1月15日、東京は渋谷のヒューマントラスト・シネマでの公開>
2011年全国ロードショーに先立ち、
1/8(土)相模大野 アルマ・オン・ミュージック(6時)
1/14(金)三軒茶屋ふろむあーすカフェ・オハナ (8時)
秘蔵のさまざまなウッドストック系映像をVJでお見せしながら
多彩なエピソード、ウッドストック・スピリットの流れ、
その今日的意味などハッピー、ヒッピー・シェイクしながら
トーク・ショーやらせていただきます!
みなさまのおこしをお待ちしています。
(参加者には抽選で映画鑑賞券のプレゼントありです)
LOVE & PEACE みなさま、元気に楽しく、よいお年を
2011年もよろしくね
時を駆ける詩人、ジャクソン・ブラウン
CALIFORNIA DREAMER STILL DREAMIN’


室矢憲治(MUROKEN)
ジャクソン・ブラウンというと、僕には思い出す出来事がいくつかある。
まず最初は、ウエストコースト・サウンドが大人気だった70年代のなかばのこと。イーグルス、リンダ・ロンシュタット、それにジャクソンという時のスターたちを抱えたロスのアサイラム・レコードのオフィスに、銃を持った若い男が乱入したのだ。だが残業中の秘書数人を人質にした男の口から出た要求は意外に地味なものだった。「ジャクソンでもイーグルスでもいい。俺をクビにした会社から自分のトラックを取り戻すための費用、3000ドルばかりをしばらく用立ててもらえないだろうか……」
事件発生後、1時間も経たぬうちに地元のFM局にジャクソンは現れ、「ねえ、頭をクールにして、この曲を聴いてみてくれよ」と若者に語りかけた。流れてきたのは“フェンスの上で身構えてないで降りてこいよ。ほら見上げてごらん、見えるだろう。きみの頭上にかかる虹が…”イーグルスの名曲「デスペラード」に続いて追い討ちをかけるようにジャクソン自身の「テイク・イット・イージー」が、“走るきみの車が立てる音が、きみをクレイジーにしないようにね”と聞こえてきた時、気弱なトラブル・メイカーは目に涙を浮かべながら銃をおろしたのだった。
これは翌日の新聞でも大きく報じられた、あの誠実でやさしいウエストコースト・サウンドの魅力を物語る、心温まるエピソードのひとつ。駆けつけたのが、ちょっと脳天気そうな歌姫リンダで、自分のヒット曲「ユー・アー・ノー・グッド」をかけていたら、事件はどうなっていたかわからないけれど……。
いや、そんな冗談はさておき、あの頃のシンガー=ソングライターたち、特にジャクソンと彼のファンとの間にあったあの友人どおし、とも思える親近感、友愛の絆は本当に特別なものだった。今年2008年の初めに第2集が出た『ソロ・アコースティック・ライヴ』に収められたあの客席のファンとの熱いやりとりに、あらためてそんなことを思い出したのは、おそらく僕だけではないだろう。
70年代LAシーンを築いた友情の絆

「昔からの仲間たちが次々レコード会社と契約をしてデビュー・アルバムを出す中、僕はどこからも声がかからず、もがいていた時期があるんだ。そんな時、若くて才能があるすごい奴がいるよって『ローリング・ストーン』誌で僕を宣伝してくれたのがデヴィッド・クロスビーさ。僕が棚上げしていた曲に目をつけて、それを完成して自分たちの最初のヒット曲にして、僕を有名にしてくれたのが、イーグルスのグレン・フライだろ。みんながお互いを思いやって、助けあっていく、そういうのが当たり前の時代だったんだよ」。
このほど6年ぶりのスタジオ新作アルバム『時の征者』の発表にあたり、電話インタビューをする機会があり、話はまず彼がキャリアをスタートさせた頃の LAシーンの話から始まった。72年のデビュー・アルバムから、彼の人気を不動のものにした74年発表の『レイト・フォー・ザ・スカイ』、76年の『プリテンダー』。時間軸を追って話しているうちに、あの頃ボランティアとして参加した1977年、東京の晴海で開かれた海洋環境の自然保護を訴えたSAVE THE WHALES『ローリング・ココナツ・レビュー』の時の思い出が僕の頭の中でフラッシュバックした。コンサートが終わって成田空港へ向かうバスが出る時間だというのに、ひとりだけロビーに現れなかったのがウォーレン・ジヴォン。“まだあいつ酔いつぶれて、ベッドの中だろう。ごめん、僕が行って起こしてくるよ!”とジャクソン。でも前の晩のステージに当時のカリフォルニア州知事、ジェリー・ブラウンの“僕よりはるかに人気者のブラウンを紹介します、ジャクソン…”と紹介されて歓呼の声で迎えられたイベントの看板スター、時の人ジャクソン。多くの人が別れを惜しみ挨拶をかわそうと彼を取り囲んでいるのに、そんなことにおかまいなくアル中の友人を救出に行こうとする彼の姿。結局、僕が部屋に駆けつけ、ジヴォンを叩き起こし、出発のバスに送りこんだのだが、自分がスターであることなどおかまいなしに、まず等身大の人間としてこの人は立っているんだな、と僕はあの時のジャクソンの態度にとても感銘を受けたのだった。
「そんなこともあったっけね。ウォーレンははじめて歌を聴いた時、すごい才能を感じたシンガーだったから、いつかみんなに知らせたいなと思って、それでデビューを手伝ったんだよ。でも彼も逝っちゃった。彼が死ぬ直前に発表したアルバムが数年前グラミー賞にノミネートされて、僕はアルバム作りに参加した仲間たちとコーラス隊で、彼の姿が大きくスクリーンに映された下でステージにのぼったのさ。ウォーレンが最後に僕をグラミー賞会場のステージに上らせてくれたんだよ」。 話していても表現のはしばしにうかがえるその謙虚さに僕は脱帽だ。しかし、これだけの長くすぐれた実績とキャリアを持つ彼が、グラミーとそれほど無縁だったとは正直びっくり。80年代なかばから『ライヴズ・イン・ザ・バランス』『ワールド・イン・モーション』などのアルバムで政治的社会的メッセージを曲に盛りこむようになった彼の姿勢に、グラミー選考委員たちが恐怖を感じたとでもいうわけか? あのライヴ・アルバムの傑作『ランニング・オン・エンプティ』で「コカイン」という危ない歌を流行らせてしまったことを問題にするのなら、彼は親友ローウェル・ジョージが死に、D・クロスビーが依存症で破滅寸前の状態になった頃、歌詞を全面的に変えて、誠実に反省の姿勢を示していたではないか。“ああ、コカインが脳細胞を壊し、友人たちの命を奪い、ロックのクオリティをだいなしにしてしまったんだよ”と。たとえ自分のヒット曲でも、こうしていさぎよく歌詞を改める彼の性格のもうひとつの美点、それは誠実さ、ということだろう。「詩人とか、言葉のクラフトマンとか呼ばれる以前に、まず、人間としての僕が感じること、考えたことをどれだけ正直に表現できるか、そういうことの方が大事なんだよね」と彼。ジャクソン、僕のグラミー賞はきみのものなのだ。授賞理由はドラッグフリー功労賞、いや違うか……。
歌作りの原点は60年代フォークブーム
ジャクソン・ブラウンがこの40年間に書いてきた作品について語る時、もっとも論議の対象になるのが、彼が社会的メッセージ、政治的意見を歌にしだした時代のことだろう。
「でもね、僕が物心ついてギターを弾きだした頃、その頃には50年代終わりから60年代にかけて若者たちの間で爆発したフォーク・リバイバル・ブームというのがあって、すごい影響を受けたんだ。ブルースからアパラチア音楽まで、いろんな楽器と演奏法を持ってこの国にやってきた人たちがいて、そういう音楽を掘り起こして歌い出していたら、これこそまさにこの国を生きてきた人々の歴史じゃないかって気づいたんだ。で、こういう歌はどんどん新しい歌詞をつけていっていいんだ。だから僕も自分の歌詞をつけ加えて友達の前で歌ってみたり…そういうところから僕は歌作りを勉強し、自分の歌を書き出したってわけさ。僕は僕の人生の歴史を、いい時も悪い時も歌に記録して残していきたいなって…それが僕の原点なんだ。だから僕が急にごりごりの政治的意見を口にしだして裏切られたなんて言われてもね。僕は変わったつもりは少しもないんだけどな……」
レーガン政権、ブッシュ政権のもとに急速に肥大した消費主義社会。TVや雑誌の広告が人々の意識を新製品へ、もっと多くの物と金へと駆るようになり、ネイティヴ・インディアンまでもがカジノ・ネイションの経営を始めるようになった時代、スポットライトはジャクソンたち、心ある歌を歌うソングライターたちからは離れていったが、彼はU2のボノ、スティング、スプリングスティーンらと南アフリカのアパルトヘイト反対、マンデラ釈放のアムネスティ・コンサートや大小さまざまな社会問題のチャリティ集会で走りまわっていた。「ロンドンのウエンブリー・アリーナでやったマンデラ釈放を祝うコンサートで歌ったのが、アメリカでもTV中継されていたんだけれど、帰ってきたらみんながTVで見たけど、あれは何のイベントだったんだって訊くんだ。肝心なスピーチはすべてカットされ、TVで流れたのは演奏だけ。あの時、アメリカにも検閲があるんだって気づいたんだよ」。
そして再び潮流は向きを変え、2004年にジャクソン・ブラウンは“失われた人間性の回復と愛の心の修復を訴える一貫したサウンドをかなで続けてきたロッカー”とデビュー以来の良きランニング・メイト、スプリングスティーンの感動的な紹介のスピーチでロックの殿堂入りを、続いて2007年にはシンガー=ソングライターの殿堂入りを果たす。おりからかつてのアサイラム・ギャングの友愛関係を思わせる、ジャック・ジョンソン、ベン・ハーパー、G−ラブら新世代のソングライターたちからもリスペクトされて活発に交流。シェリル・クロウが彼の初期のヒット・ナンバー「ドクター・マイ・アイズ」をカバーして、ジャクソンを知らない世代の音楽ファンの間で大きな反響を巻き起こすなど、再び熱い注目が彼の上に注がれはじめているかのようだ。エニー・コメント、ミスター・ブラウン?
「よせやい、おもはゆいだけさ。これまで曲を書き、歌うって仕事を続けさせてもらえてみんなに感謝の気持ちでいっぱいさ」。誠実で謙虚であること、それが時の征者、いや時の聖者の知恵であり、教えなのだろう。「それより、あらたな原発建設のもくろみに抗議して、ボニー・レイットやNO NUKESコンサートをやった仲間が集まったんだ。ジョン・ホールはいまや下院議員になって頑張っているんだ。今度のアルバムはあの時代の夢と理想を胸にまだ頑張っている仲間たちへのオマージュがテーマのひとつなんだよ」時の流れにも色褪せることなく僕らの人生を輝かせてくれる数々の歌をありがとう、ジャクソン!きみとともにウィ・アー・ランニング・オンなのだ!
流れ続けるブルー・リバー、エリック・アンダーソン
聞き手・構成 丸木 武

心に積る苦しみ悲しみ捨ててしまおうとオールド・マンは河へ出かけていく望みさえすればどこへでも行けるんだただボートを漕ぎ出せばいいんだよブルー・リヴァーは流れ続けているんだ
1972年に発表されたエリック・アンダーソンの「ブルー・リヴァー」は当時の混沌とした時代の流れの中で苦悩していたアメリカ、そして日本の多くの若者たちのハートを揺らした、あのシンガーソングライター時代の代表的名曲だ。コーラスにはジョニ・ミッチェルが加わり、最近再発された同名のアルバムのエリック自身のライナーによると、フェスティバル・エキスプレスで知り合ったザ・バンドとの交流から産まれたものだという。アルバムには大の仲良しだったジャニス・ジョプリンのために書いた「パールズ・グッドタイム・ブルース」も入っている。そしてなんとこのアルバムを捧げた人々のひとりとして後のパンクの女王、パティ・スミスの名が……。フォーク、ロック、パンクのクィーンたちと浮き名を流し、ボブ・ディラン、レナード・コーエン、クリス・クリストファソンといった同時代の歌手たちにも大きな影響を与えてきたこの“愛と放浪の詩人”とはどんな人なのだろう。そう思っているところになんというタイミング!彼、エリックの日本の無二の親友、ムロケンさんから来日の知らせが飛びこんできたのだ。早速、同行させてもらって60年代グリニッチ・ヴィレッジの青春群像、アンディ・ウォホールやルー・リードとの交遊、ブライアン・エプスタインの悲劇etc…興味深い話をいっぱい訊くことができたのだ。まずは湘南での公演地、茅ヶ崎のウエスト・コースト風クラブ、フロッギーズにて。
★
Burst High(BH) いいお店ですね。サーファー系の日焼けした笑顔の素敵な人たちいっぱい。デッドのTシ
ャツ着た人、渋いアロハ姿あり、エリックのファンってみんなカッコいいですね。
Muroken(MK) エリックとかジャクソン・ブラウンとか、あの時代(70年代なかば)彼らの優しく繊細な歌に熱くなった連中ってサーフィンやウエストコーストの自由なライフスタイルにも影響を受けた連中だもの。スタイルもスピリットも気持ちいいフォエバー・ヤング系(笑)。こういうファンたちが10年経っても20年経っても駆けつけてきてくれるんだもの、「カム・ランニン・ライク・ア・フレンド」って彼の歌のとおりさ。エリックもしあわせ者だよ。
Eric Andersen(EA) ハーイ、ムロ!アミーゴ、会いたかったぜ!!
(とエリックさんが登場。再会の熱い抱擁が交わされる。友人というより恋人たちのようだ。紹介してもらって、「会うたびに横にいる女性は変わっても、変わらないのはきみと俺!グレートなのはそこだよ!」「今度は実の娘より若いオランダ娘とロマンス中だって、えーい、永遠のすけこまし野郎に乾杯だ!」とハイ・テンションの二人の会話をぬってインタビューを開始する。う、う、う、やりにくい……)
BH エリックさんのデビューは『トゥデイ・イズ・ザ・ハイウェイ』を出した1965年?
EA うん、でもその前からケルアックやビート詩人たちに憧れて、東部の大学をドロップアウトしてヒッチハイクでサンフランシスコに行き、町のクラブで歌っていたのさ。そこでトム・パクストンが“いい歌を書くね、NYにおいでよ”って誘ってくれて、行ってみたら……
MK ボブ・ディランを中心に、フレッド・ニール、フィル・オクス、デイヴィッド・ブルー、後にシンガーソングライター・ブームと呼ばれる潮流を最初に作った若い才能たちがグリニッチ・ヴィレッジにひしめきあって素敵なシーンを作っていたと……。その話はウン10年前から通訳をしてて何度聞いたか(笑)。でも、どうしてあんなたくさんの小さなカフェやクラブにフォークソング・ブームが起こったんだい?
EA 当時のキャバレー法でヴィレッジ・ヴァンガードとかお金のあるジャズ・クラブとは違って、ああいう元は花屋だったぐらいの小さな店は酒の販売許可が下りず、客寄せをするには詩人とかコメディアン、それにギターを弾いて歌う女学生をやとうぐらいしかできなかったんだよ。そんなアンダーグラウンドのシーンがいつのまにか進化して、ミシシッピ・ジョン・ハートとか、ドク・ワトソン、レブランド・ゲイリー・デイヴィスといったブルースやカントリー・シンガーのベテランたちが出演して人気を呼んだり、彼らから音楽をじかに学んで、それを下敷きに新しい歌を歌う僕らが注目を集め始めたり、波のように盛り上がっていったんだ。そうだ、波といえば、ムロ、今度出るグレート・アメリカン・ソング・シリーズの2、『ウェイブズ』おみやげに持ってきたよ。
MK わあ、サンキュー。そうか、1はバフィ・セント・マリーとかパトリック・スカイとか、きみの仲間だったネイティブ・インディアン系の歌手の忘れかけられた名曲が再紹介されていたし……このシリーズできみはヴィレッジのあの時代の仲間たちへのオマージュを捧げようってわけなんだな。
BH まさに一枚目の『ザ・ストリート・ウォズ・スティル・ゼア』ってタイトルのとおり、今の若い連中にこのシンガー・ソングライター・ムーブメントの流れの原点を伝えようってわけですね。このデイヴィッド・ブルーってディランとも仲が良かった人なんでしょ?
EA ボブのクローンみたいな奴で、僕ともよくつるんで遊んでいたよ。ジョニ・ミッチェルにたかって暮らしていたこともあって、ある日引っ越しをしたいから少し用立ててくれないかって金をもらったんだ。ところが次の日、ジョニは薔薇の花束を抱えて誰かを待っていた彼と街角でばったり。カンカンに怒る彼女にデイヴィッドは“どうしたんだよ、こんなことで怒るなんてきみらしくないぜ、せっかくのべっぴん顔がだいなしじゃないか!”(笑)。彼のまわりはそんな信じられないような伝説がいっぱいさ。ディランがはまっているというので、フィル・オクスがディヴィッドにマリファナの調達を頼んだことがあったんだ。でもフィルは真面目パラノイア・タイプだったから、すぐにおどかされて巻き上げられちゃうんだ。でもりちぎに金を払い続け、デイヴィッドはまた調達しては巻き上げてウハウハさ。ハッハッハ、クレイジーな青春模様だったけれど楽しい日々だったな。みんなお互いに刺激を与え合いながら、ソングライティングに切磋琢磨していたんだ。フィルはベトナムの戦争をテーマに書いたり、今でもそのまま通用するような社会の不正を糾弾するようなプロテスト・ソングをいっぱい残してるんだ。機会があったら聴いてくれよ。
MK 「カム・トゥ・マイ・ベッドサイド」なんてロマンチックな、実はすけこまし本領発揮の歌を書いて若い娘たちをうっとりさせてた誰かさんとは違うわけだ(笑)。そういえば昔、フィルのアルバム大量に歌詞を僕が訳して日本盤が出てたよ。
EA さすが、僕の65年のデビュー・アルバム記念コンサートに来ていてくれたファースト・サムライ・イン・グリニッチ・ヴィレッジだ!
BH えっ、ふたりの仲ってそんなに昔からなんですか!
(というところで出番となり、エリック・アンダーソンはステージへ。「風に吹かれて」の一節をハーモニカで加えた「ベッドサイド」。8年前最後に一緒に来日公演を行ったリック・ダンコとの共作「ドリフティン・アウェイ」、「ブルー・リバー」などの名演に僕も客たちも酔いしれたものだ。そしてインタビュー、テイク2はトムズ・キャビン主催者で歌手の麻田浩さんが、かっての狭山アメリカ村で細野晴臣、小坂忠、佐野元春、日本のウッドストック・シーンを築いてきた新旧の仲間たちと立ち上げたハイドパーク・フェスティバルの会場で行われた)。
EA ウッドストックかい、ここは?兵隊たちが出て行った後に音楽がやってきたなんて、素敵な話じゃないか!
BH ルー・リードと共作した「キャント・リリブ・ザ・パスト」って曲よかったですよ。ルー・リードやウォーホルとの交流もヴィレッジ時代からなんですか?
EA アンディは『スペース』って映画にイーディなんかと主演してくれって誘われて出たのがきっかけで親しくなったけれど、ルーとは数年前にイタリアの詩人会議で出会って意気投合したのが最初だよ。僕は83年にウッドストックを引き払って以来、ヨーロッパとアメリカを行ったり来たりの生活をしてるけれど、いつも心はニューヨーカーだからね。あいつとはムロと同じように会ったとたんに以心伝心。あの曲も5分でできたのさ。そうだ、アンディがよくルーに言っていた言葉があるんだ。
MK えっ、なに真夜中にサングラスで歩く時は気をつけろ?(笑)
EA つまらない連中とはつきあわず、いつも天才たちのまわりにいろって。僕はいつもいる必要はないと思うけれど、言葉を多く語らなくてもスパークできるようなハイなコミュニケーションってアーティストにはとても大事だと思うよ。
MK きみの天才たちとのつきあいの思い出を聞かせてよ。たとえばジャニスとか。
EA こんなに歌い手の数がスターバックスやそば屋なみに増える前は、どこかの町のクラブでの出演は一日じゃなくて一週間単位。ニューヨークならチェルシー・ホテル、トロントならどこ、とそういうツアー・ミュージシャンがたまるホテルがあって、ジャニスとはロスのランドマーク・ホテルで知り合って仲良くなったんだ。“エリック、あんたのレコード会社あんたをつぶそうとしてんじゃない?”(ジャニスの口調で)“「こんな美しい男がこんなに美しく歌っていいものだろうか」だって、アハハハ、男たちからは総スカンくらえってこ?”なんて。しょっちゅう電話かけあったり、フェスティバル・エキスプレスで一緒に旅したりしていたのさ。ジミ・ヘンドリックスがロンドンで死んだ時も電話くれて“あんたはピルなんかやっちゃダメよ”なんて言ってたんだ。その時、電話口でできたばかりの「パールズ・グッドタイム・ブルース」僕は歌ってきかせたんだ。そしたらそのわずか3日後、彼女が死んだというニュース。ひどいショックだったよ。
MK ビートルズの天才マネージャー、ブライアン・エプスタインがきみと契約しながらすぐに他界しちゃったのも、きみのキャリアにはひどい傷を残したんだよね。
BH ええ、そうだったんですかあ?
EA ニューヨークのザ・シーンってクラブでアーロ・ガスリーなんかとバンドを組んで出演している時にやってきて、「きみと契約したい」。レコードを出すことや色々と決めてマネージャー契約をして、でも僕は仲間たちの反感をかうのがいやで、内緒にしていたんだ。そしたら彼が手配してくれたビッグ・フェスティバルに出演中、ジョン・デンバーがにこにこ顔でやってきて、“いいニュースだよ。ブライアン・エプスタインが死んだって!”。フォーク・シーンを退潮させたのはビートルズの出現によるものだって考えられていたころだからね。でも長いミュージシャン生活、そういうたくさんのアップ&ダウンがあったから今の僕がいるんだって僕は思うのさ。こんな素敵な仲間たちと会えたし…(とムロケンさんと熱い視線を交わすエリックさん)。おぼえておいてくれよ、この河の流れは絶えることがないんだってことをさ。
★ おりからの土砂降り雨にもかかわらずフェスティバル会場を去らずにその登場を待っていた観客の数はざっと千人。村上律、徳武弘文らのグループ、ラスト・ショーの演奏をバックに歌うエリック・アンダーソンのステージは圧巻だった。途中、中川五郎氏らと愛娘マナンちゃんを抱いてコーラスに加わったムロケンさん。戻ってくると胸のエンジェルは“マナンもいつかエリックさんみたいにギター持って歌う人になるー”。ウーン、ブルー・リバーの流れは続いていくようだった……。
サマーオブラブ
1967~2007




BURSTHIGH(BH)
おひさしぶりです。長くて暑い夏でしたけど、忍野デッド、朝霧天空祭り、ホーボー・コンサート他、ムロケンさん、オーガナイズしたり、出演したり、元気に飛び回ってられましたね。
MUROKEN(MK)
あれっ、姿見せなかったのに、どうして知ってるの?
BH
いやだな、インターネット・エイジですよ。ダンシング・ベアー・ポエトリー・バンドでデッドのレパートリー歌いまくり、新旧世代のデッドヘッズたちを喜ばせてたことも、「今年はサマー・オブ・ラブから40年目にあたるけど、ラブ&ピース、ときめきと優しさの伝統は今もここにいる仲間たちの心に引き継がれ、次の世代の子供たちに届けられていくんだよね」って、ごきげんなMCラップしてたことも、ちゃんとインプットしてますよ。
MK
そう、そのサマー・オブ・ラブ40周年のことで、この間ボブ・ウイアーに電話インタビューしたら「なんでグレイトフル・デッドの最年少メンバーだった俺が、あの世代の代表スポークスマンになっちまったんだろな」ってため息つきながら言っていたよ。「あの時代の若者たちの多くはたしかにドラッグをメイン・エンジンにして自分たちの楽しさを求めたり、いろんな探求の旅をしていたけど、今の若者たちはコンピューターでとんでいるんだな」って。「いいか悪いかは別にして、距離って概念が消滅しちゃったんだな」って。今のきみの話を聞いたら、僕もその意見に一票だな(笑)。
BH
ボブ・ディランも「昔と違っていくら移動しても、それぞれの町が同じようになって、みんな同じような服を着て、同じものを食べて、同じことを考えている」って発言していましたね。『ローリング・ストーン』誌40周年記念号のインタビューだったかな。あの60年代、70年代アメリカ若者文化を盛り上げた音楽誌も一九六七年、このサマー・オブ・ラブの年の創刊なんですね。ジミ・ヘンやジャニスが大ブレイクしたモンタレー・ポップ・フェスティバルが開催され、ビートルズの『サージャント・ペッパー・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が世界中で鳴り響いていた年。ヒッピー文化が一気に花開いた年なんですよね、この67年って年は?
MK
そうか、わかったぞ。21世紀のネオ・ヒッピーとしてはこの年のことをもっと知りたいってわけだ。だめ、だめ、いくら資料をネット検索しても、DVDを見まくっても、あの日のゴールデン・ゲート・パークのステージで、サイケデリック・ヨガ行者みたいな表情を浮かべたジェリー・ガルシアのギターがどんなに集まっていた人々をハイにしたか、その演奏を聞いて瞑想をやめて踊りだした、あのインド帰りのビート詩人、アレン・ギンズバーグの姿がどんなにみんなをハッピーな気分にさせたか、あの雰囲気、あの空気感とか匂いは伝わってくるものじゃないもの。集まっているすべての人間が自由気ままにそれぞれのコスチュームに身をつつんで、自分の映画の主人公って感じで、微笑みあって、しゃぼん玉が飛んでて……
BH
あっ、ムロケンさん、タイムワープしていっちゃ困りますよ(笑)それって67年1月にサンフランシスコのヘイト・アシュベリーのシーンを作っていた人々とバンドが自然体で集まって開催したヒューマン・ビー・インでしょ。デッドにジェファーソン・エアプレイン、クィックシルバー・メッセンジャー・サービス、当時のシスコ・ロックの最先端のグループが総出演。それにギンズバーグやゲイリー・スナイダーらビート詩人たちが詩を朗読し、あのハーバード大学を追放されたLSD教祖、ティモシー・リアリーが「チューンイン、ターンオン、ドロップアウト!」って有名なスローガンを唱えた歴史的イベントでしょう?
MK
チェット・ヘルムズって、グラフィック・アーテイストのマウスなんかもいたファミリー・ドッグって名のヒッピー集団のリーダーが中心に、ベトナム戦争をすすめている政府やアメリカ社会に対して、若者として新しい生き方、意識を表現しようって実現された催しさ。あれが69年のあのウッドストック・フェスティバルのステップボードになったんだ。聴衆の中にはデビュー前のドアーズの面々や、まだ無名のコメディアンだったロビン・ウィリアムズ、アップル・コンピューターをつくったスティーブン・ジョブズなんかもいたんだ。この新しい俺たちの文化を自分たちの言葉で伝えなきゃって『ローリング・ストーン』誌発刊の準備をしていたUCバークレーのドロップアウト学生だったヤン・ウエナーもね。
明日に向かって振り返れ
BH
そういうさまざまな若くクリエイティブなエネルギーが、あの時代はすさまじいスピードでダイナミックにひとつになったり、クロスしたりで時代に表現していったんですね。単にドラッグでハイになって、ラブ&ピースを叫びながら、ジミヘンやジャニスの音楽で踊っていただけじゃなかったんだ(笑)。
MK
あの蛍光ペイントでぬりたくったスクール・バスに乗って、カリフォルニア各地をまわり、アシッド・テストって意識実験パーティをやっていたメアリー・プランクスターズって元祖ヒッピー集団のことはもちろん知ってるだろ?あのグループのリーダーだった作家のケン・キージーは「自分たちの映画をまわせ、やつらの映画にとりこまれるな。自分たちのことをやれ!」ってメッセージを残して、もうこの頃、つまり、マスコミがシスコに群がって「ヒッピー現象」を大々的に全国に報じる頃には、グループを解散してさっさとオレゴンの農場に帰っていっちゃった。それで「シスコではなにかおもしろいことが起こっている、行ってみよう!」ってあのスコット・マッケンジーの大ヒット曲『花のサンフランシスコ』をBGMに全国から「サマー・オブ・ラブ」のわけまえにありつこうってお気楽な若者たちが、10万人もつめかけてきた時には、このビー・イン集会をやった良質な初代ヒッピーたちは、「ヒッピーの葬儀」をハイト通りでやって、シスコを離れ、コロラドやニュー・メキシコの方へ去っていっちゃった。
BH
はとバスのヒッピー・タウン・ツアーみたいな観光バスが走りだしていたって、聞きましたよ(笑)。そんなに人があふれちゃ、もうシーンもおしまいですね。
MK
喜んでいたのは、フィルモアのロック・ダンスナイト興行を週2日から6日に増やして大もうけしていたビル・グラハムぐらいじゃないかな。噂を聞いて、ロサンジェルスからジェット機で“サマー・オブ・ラブ”の視察に来たビートルズのジョージ・ハリソンも、たちまちまわりをわけのわからない連中に取り囲まれて、大バッド・トリップ、一日いただけでしっぽをまいて帰っていったって(笑)。
BH
なんだ、美しく、無邪気で、クリエイティブなヒッピーたちの時代の代名詞のように思ってきたけど実際のところ“サマー・オブ・ラブ”はもう67年夏には終わっていたんですね。モンタレー・ポップ・フェスティバルは同じ年の夏の始まりぐらいに行われたんでしょう。あのフェスティバルにもデッドやジェファーソン・エアプレイン、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュとかシスコ勢がいっぱい出ていましたよね。
MK
シスコのシーンが楽しくビューティフルだったのは、65、66、そして67年の初めまでだったなってボブ・ウィアーは言ってたけどね。その後はかたや戦争だ、徴兵だ、自分がなにをしたいいのかわからない若い難民たちが、春休みとともに押し寄せてきてめちゃくちゃになっちまったって。でも、今から振り返ると、当人たちは口では「レコード会社なんて体制のシステムなんか知るかよ」って反体制の反逆者ポーズをとっていたけれど、ある意味でラッキーだったんじゃないかな。ジェファーソンがビクターとレコード契約して「サムバディ・トゥ・ラブ」や「ホワイト・ラビット」のヒットをたて続けに出して、続いてデッドがワーナーと契約。音楽界や世間一般の注目を集めるようになって、シスコ以外の都市でも演奏できるようになったことはね。その最初のシスコ・グループ見参ってビッグ・イベントがモンタレー・ポップだったんだ。
BH
ママズ&パパスのジョン・フィリップスと彼のプロデューサー、ルー・アドラーがシスコにやってきたり、サイモンとガーファンケル、ポール・マッカートニーらミュージシャン仲間に出資を頼んだり、時代の空気にふさわしくいちおうミュージシャンたちが主催のイベントだったんでしょう?
MK
とはいっても、創刊1号の『ローリング・ストーン』誌が不正な裏の収益金があったことを告発してたし、デッドらシスコ派は最初からこの催しにうさんくささを感じていたんだね。商業主義的な匂いがするって、映画撮影の話も拒否したんだ。でもフェス一番のパフォーマンスをしたジャニスは、のりこんできたコロンビア・レコードの社長やディランの辣腕マネージャーなんかにべた惚れされて、契約の話とひきかえに撮影に応じちゃった。いま出てる『モンタレー・ポップ』 DVD三枚組で見られるジャニスは、だから撮影用にセットされた二度目のステージなんだ。二回演奏したのは、彼女が属していたビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーだけ。なんてロック・マニア向けの裏話はどうでもいいか(笑)。でも、たしかにモンタレーのジャニスは最高だよね。
サマー・オブ・ラブの理想の実現
BH
イギリスから第二波でのりこんできたザ・フー、それにジミ・ヘンドリックスの楽器ぶちこわしパフォーマンスもロック史に燦然と残る名演でしたね。
MK
後、初めて万単位の白人オーディエンスの前に登場してソウル・ミュージックの神髄をみせつけてくれたオーティス・レディングの熱演といったら!
BH
愛し合ってるかーい、って海のこちら側に忌野清志郎を誕生させてくれた……(笑)
MK
それとシタール・マスターのラヴィ・シャンカールがインド音楽ブームに火をつけたのもあのモンタレー・ポップ。お香ブームもあそこからかな(笑)。とにかく40年たって見方は色々あるだろうけれど、音楽の歴史を大きく動かしたイベントとしてはモンタレー・ポップは最上級の“グルーヴィー”な催しだってことにまちがいないね。
BH
ロスに近かったせいか、観衆のファッションがどこかセレブっぽくておしゃれ。でも瞳孔ひらきっぱなしの表情が、シスコから流れてきたオーズリー・アシッドの影響ありありって感じですよね。ああ、僕もあの時代に生まれていて、あの会場にいたかったな!
MK
そんな気持ちのイラク戦争下の鬱屈としたラブ&ピース世代の若者たちのために、この夏、サンフランシスコの市長が“この町の世界に誇るレガシー、サマー・オブ・ラブの40周年を記念して集まろう”と呼びかけて、往年のシスコ・ロック勢が総出演したすごい催しがゆかりの地、ゴールデン・ゲート・パークで開かれたのに、なんだ知らなかったの?残念だったね。ネット・エイジを自慢するわりにはチュー二ングがダメじゃん(笑)。
BH
え、えーーっ。8月最初のジェリーズ・デイ、ガルシア・メモリアル12周忌じゃなくて?シスコがまた燃えてきているんですねー!どんなめんつが集まったんですか?
MK
デッドからボブ・ウィアー、ジェファーソン・エアプレインのポール・カントナー、マーティ・バリン、カントリー・ジョー、ドアーズのレイ・マンザレクとビート詩人のマイケル・マクルーア、ニュー・ライダーズ・オブ・パープル・セイジにキャンド・ヒート、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーのサバイバル・メンバー、オリジナル・メンバーのモビー・グレイプやシャランタンズ、ドゥビー・ブラザース。ネイティブ・アメリカンたちの平和の祈りにはじまり、ジェシ・コリン・ヤングの愛と平和の讃歌「ゲット・トゥゲザー」の三世代にわたるタイダイ・レインボー・ファッションの5万人の観衆との大合唱で終わるまで、間にウッドストック・オーガナイザーやホール・アース・カタログを作ったステュワート・ブランド、ヒッピーイズムを高らかに世界に示した数々の功績者たちのメッセージが入り、ジョイン・トゥゲザー、ジョイント・トゥゲザー(笑)。雲一つない青空のしたに、また素晴らしいアナザー・ワールドがあったんだよ。「サマー・オブ・ラブの理想の実現は今からでもまだ遅くないはずさ」ってアンダーグラウンド・ラジオの人気キャスター、スクープ・ニスカーの言葉が大喝采を浴びていたっけ。
BH
ああ、もっと若い人たちもサマー・オブ・ラブの歴史と伝統、スピリットを知ってもらって、もっともっとこの世の中をベター・ワールドにして行きたいですね。
MK
おっ、ナイスなまとめだね(笑)。地面に足をつけて、地球をそれぞれの足下からまわしていこうじゃん!もっとみ
モノクロ写真は、67年のモンタレ-・ポップフェス、
カラー写真は、今年行われたロスのゴールデン・ゲート・パークでのイベント。

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